平沢文集

LANDSALE PNL Vol.3
ボクはみなしご志願の夜にげ人
無賃乗車の売国奴
だれのためにでもなく
ただ自分のためにだけ
移動しつづけたい

ボクはみなしご志願の夜にげ人
ひとつの土地や
ひとつのしぐさに
ぼくがいだいたこの気持
殺したい

ボクはみなしご志願の夜にげ人
レミングの大移動でもなく
人民の集団そかいでもなく
しょせんひとりの孤独者として
このおろかしくやっかいな個人が
愛を維持して行くために

ボクはみなしご志願の夜にげ人
無賃乗車の売国奴
ボクはみなしご志願の夜にげ人
すべての愛着を殺したい

平沢 進
1980

クロシロクロシロクロシロクロシ
黒ヤギさんからお手紙ついた
白ヤギさんたら読まずに食べた
しかたがないからお手紙かいた
さっきの手紙のご用はなあに

白ヤギさんからお手紙ついた
黒ヤギさんたら読まずに食べた
しかたがないからお手紙かいた
さっきの手紙のご用はなあに

黒ヤギさん 皮むかれて死んだ
白ヤギさん 皮かぶって泣いた
しかけがないからトリハダたてた
クロシロクロシロクロシロクロシ
クロシロクロシロクロシロクロシ
1981

BLUMCALE 1 “PERSPECTIVE”
カナリアの籠展開図ぐるりとまわる360度期待は記憶気のどくだねオゾノ・コブラノスキー
オゾノ・コブラノスキーはおじいちゃんの臨終を見ました


オゾノ・コブラノスキーとしては自分は子供という生物だと思っていたのにおじいちゃんの臨終は彼を裏切りました


オゾノ・コブラノスキーはその日から時計が読めるようになりました


オゾノ・コブラノスキーはサイズがありました


おじいちゃんにはサイズがありました


オゾノ・コブラノスキーとおじいちゃんの間にもサイズがありました


おじいちゃんの臨終はひとつのサイズの終りでした


サイズの終りだから臨終だとおとうさんは言いました


かんおけはおじいちゃんのサイズに作られました


それはオゾノ・コブラノスキーにとってとても大きなものでした


かんおけのそばにいるとあまり大きいのでオゾノ・コブラノスキーの視界の中にかんおけ全体が入りませんでした


そこでオゾノ・コブラノスキーはかんおけの回りをめぐることにしました


かんおけをめぐり全体をみとめるのにかかった時間は5分でした


かんおけからはなれると全体が見えるよとおとうさんが言ったので オゾノ・コブラノスキーはかんおけから5秒かけてはなれました すると オゾノ・コブラノスキーの視界の中にかんおけがすっぽりと入りました


オゾノ・コブラノスキーはそのままかんおけからはなれて行きました


26分かけてゆっくりはなれるとかんおけはとうとう点になりました


さらに23分かけてはなれるとかんおけはなくなりました


あったものがなくなりました


すると遠くでおとうさんがよんだのでオゾノ・コブラノスキーは49分のサイズに身をゆだねて帰りました


おとうさんのもとへ帰るとオゾノ・コブラノスキーはうやうやしく時計のネジをまきました



臨終はめのびょうきwへ_√レvv ̄─
1981

BLUMCALE 2 “STORY” 
カナリアの籠展開図ぐるりとまわる360度期待は記憶気のどくだねオゾノ・コブラノスキー
オゾノ・コブラノスキーはおじいちゃんの臨終を見ました


死んだおじいちゃんの体はなくなりました


体がなくなるとご臨終です


オゾノ・コブラノスキーにとってご臨終はおっかない事です


おっかないは神のみぞ知るもんだからどうころんでも絶対です


そこへもってきてころべば神様のおっかないはなおさら絶対にイヤイヤです


おっかないはおっかない自体にとうちゃくする道のりだからおっかない


オゾノ・コブラノスキーはイヤイヤをしました


その瞬間オゾノ・コブラノスキーは道のりの最終地点にいました


あたりまえです


オゾノ・コブラノスキーがこれから送る日々はすべて最終地点からの回想となりました


オゾノ・コブラノスキーにとっては現在も未来も回想の過去です


オゾノ・コブラノスキーがこれから見る物聞く物はすべて回想です


回想はのこりの道のりの計量でした


オゾノ・コブラノスキーは時計のネジを巻きました


アヒル:ア→ヒ→ル(→最初のアに戻る)  オマエ:オ→マ→エ(→最初のオに戻る)  トナリキンジョ:ト→ナ→リ→キ→ン→ジョ(→最初のトに戻る)



神ぷさんがしめしめと言いましたwへ_√レvv ̄─
1981

BLUMCALE 3 “カナリア”
カナリアの籠展開図ぐるりとまわる360度期待は記憶気のどくだねオゾノ・コブラノスキー
オゾノ・コブラノスキーはおじいちゃんの臨終を見ました


おじいちゃんは「無し」になりました


神父さんは空を指さしました


神父さんのさす指の先には膨大なサイズがありました


サイズがあまり膨大なのでオゾノ・コブラノスキーは悲しくなりました


ご臨終は目の事件でした


ご臨終は言葉の事件でした ご→り→ん→じゅ→う


サイズの終着点は「知らん」でした


オゾノ・コブラノスキーは終着点から見た「知ってる」の「有り」でした


オゾノ・コブラノスキーは大きく大きくおーーーーーーきく時計のネジをまきました


するとオゾノ・コブラノスキーの目から銀の棒がにょきにょきとのびました


オゾノ・コブラノスキーの口から銀の棒がにょきにょきとのびました


あっという間におりになりました


オゾノ・コブラノスキーはかごのカナリアになりました


カナリア・コブラノスキーはかごから逃げる計画をたてました


かごの構造を知るために展開図を描きました


展開図のかごから逃げるにはカナリア自身も展開図になる必要がありました


首尾よくカナリア・コブラノスキーはかごから逃げました


ところがどっこいしてカナリア・コブラノスキーは死んでしまいました


飼い主とえさの展開図を描き忘れていたからでした


そこで今度はかごとカナリアと飼い主とえさの展開図を描いて首尾よく逃げました


ところがどっこいしてカナリア・コブラノスキーは死んでしまいました


何度も死ぬなんてこれは夢にちがいないと思いました


ほんとうに首尾よく逃げるにはかごとカナリアと飼い主とえさと夢の展開図が必要でした


カナリア・コブラノスキーは夢の展開図を描こうとしましたが不可能でした



カナリア・コブラノスキー=オゾノ・コブラノスキー

カナリア・コブラノスキーの空間≠夢を見ているオゾノ・コブラノスキーの空間




悪夢にうなされているオゾノ・コブラノスキーに死んだおじいちゃんから手紙がとどきました


書き出しはこうです
「日付:本日ただ今この瞬間 おじいちゃんへ
 オゾノ・コブラノスキーより」



空間がぶりゅむける瞬間wへ_√レvv ̄─
1981

21st CENTURY DEBU CONCRETES “J-TOWN STYLE”
平沢 進(P−MODEL)

 つうかその、遅れてきた慰問団。末期の野戦病院のそれにかんがみるに、手足ヅッタヅタの、ぶっとびほうだいの面影の、夢も希望もなくしほうだいの、しかもあと40分後には確実に死ぬというとっても痛そうな人たちんところへ息せき切ってやって来た“かっこいい人がかっこわるいふりをする”というパロディーなんかまったく成立しない“ほんとにかっこわるいゆえにほんとにかっこいい”オッサンひきいる慰問団。ヤッタァ!コンクリーツ。でもね、おそいよう、もうおそいんだよう。神尾も辻谷も川崎も吉川も40分後には死ぬんだ。弱ってるヤツは善人だと言うが、死んでくヤツに向かって下町情感光線をさんざんばら浴びせ、「あー人類もまんざらじゃないなあ、こんつぎ生まれて来てもまた世の中痛かったらこんなふうにも生きてもみよか」なんて思わしといたとおもったらいきなりヅタヅタのボロボロを指さして「身から出たサビたぁおめーのこったぁ」などと言ったりする。この曲そんな感じ。でもよ、こっそりおせーてやっけどな、その遅れて来た慰問団のオッサンな、家帰ってから泣くんだぜひとりで。あーしみずさん、すきっ。
1984

旬IV
このレコードのカッティングの日に
見ず知らずの老人が
ずけずけと車に乗り込んできて
「岩手県まで乗せて下さい」と言いました
これで仕上げは済んだわけです……旬
1987

キネマ 梅津和時
 “はずかしいアノ部分がバッチリ。映画2010年ラストシーンの2つの太陽がモザイク処理無しでくっきり!”
 成人雑誌に載せる広告原稿を書いているところに電話のベルが鳴った。組からだ。「初仕事だ、無修正の新作を仕入れて来い」。裕一は書きかけの原稿をそのままに、外へ出た。外はどしゃ降り。「いい天気だ」裕一はそうつぶやいて雨傘を取る。境界をくぐる現場を見られるとヤバイが、こんな真昼間に起きている人間などいるまい。境界をくぐると天候の変化にめまいがした。あいにくの晴天だ。雨傘をたたんで裕一はあちらの我が家へ向かう。途中(放射能)マークのついた建物の前で群衆が小競り合いをしていた。「なるほど、こっちでも病院は問題なのか」。あちらの我が家に着くとさっそくブツの交換である。あちらの裕一から無修正の西部劇を受け取り、かわりにこちらのホームドラマを渡した。あちらの裕一はニコリと笑い、「今こいつの広告原稿を書き終えたところだ」と言って紙切れを出した。広告原稿の始まりはこうだ。
 “はずかしいアノ部分バッチリ。死体の女陰を喰うシーンがモザイク無しでくっきり!”

平沢 進
1990

目覚めよP−MODEL
目覚めよP-MODEL。私は今、そう願っています。
1988年、心の北方に埋めた氷堆石(P-MODEL)は永久に解けるはずのないものでした。
不可能な願いと知りつつ、
私はテクノが永遠のプリミティブになる事を望んだのです。
そして今、もう一度P-MODELを始動せよと私に命じる声が聞こえます。
コンピューターとの3年間にわたるセッションの中で出会った
“グル・メディテーション”と名のるエラー・コードからの声です。
テクノロジーに鎮座するその偉大なプリミティブは、
私の中に新たなテクノ・ポップを奏でました。
そしてこの一年、私は最後の項目を残して、すべての準備を完了しました。
最後の項目とは勿論、P-MODELを解凍することです。
1991年9月23日 日比谷、眠れるP-MODELは自らの解凍を願い、
テクノ乞いの歌声を上げようと思います。
目覚めよP-MODEL。
あなたも今、そう願って下さい。 平沢 進
1991

P−MODEL声明文
ようこそERROR OF UNIVERSEへEROOR FORCEから一年、再びバンドという重荷を背負う決意も固まり、今日晴れておちゃらけてないP−MODELを舞台に立たせる用意がととのいました。3年前のコールド・スリープをへて、明日から再びP−MODELの新世紀を始めるにあたって今夜は、解凍のための最後のセレモニーとして、テクノ乞いの歌声を上げたいと思います。平沢ソロを通して最近、P−MODELを知った人にも馴染みのある曲、古くからのP−MODELファンなら、あっと驚くような曲ばかりを可能なかぎりテクノ・タッチに仕上げました。P−MODELを愛してくれた戸川純さんのYAPOOS、同じくP−MODELを愛してくれたケラ君と元P−MODELの中野照夫君のLONG VACATION、そして何と、急遽応援に駆けつけてくれた関西テクノの老舗、尊敬する小西健司氏率いる4D、元P−MODELの秋山勝彦率いるHERE IS EDEN。これらの人達にかこまれて、今夜P−MODELは目覚めようと思います。 目覚めよP−MODELこれが今夜のキーワードです。1991.9.23
1991

エラー・オブ・インフォメーション
驚異の親切文!
解凍後のP-MODELは、極力親切であろうと努めてまいりました。しかし、アクシデントはどこにでも有るものです。「BIG BODY」のアルバム・ジャケットに、このうえない親切さで示されるはずだったインフォメーションが、ふとした手違いから、意味不明な姿で印刷され、放置されているのにお気付でしょうか?

Nsetn....
Oirao
Ivook  と。

幸い、読めないほどの配列ではないので、すでに解読した人もいるかと思います。これは日本語と英語の組み合わせで、P-MODELの今後が示されているのです。そう、順番に読めばいいのです。ただ順番に。

過去の私ならここで話をやめてしまうでしょう。しかし、新生P-MODELは親切であろうと努めてまいりました。そこで私は、今ここで、このうえない親切心を展開しようと思っています。

まず、このチラシを読んでいるのはほとんど、道ばたの日本人に違いありません。そこで辞書をひく手間を省いてさしあげたい。次の言葉をおぼえてください。

Revision=改訂(あらためなおすこと)

おぼえた?
それでは、ジャケットに示された意味不明の文字を右下のkから上に向かって読んで
いただきたい。

konoato revisION

この後 Revisionとなる

早い話、メンバーチェンジ。
どうです。ショックで立ち止まってしまったでしょう。しかし、年季の入ったファンはこんな不親切には慣れている。

さて、1991年野音で解凍したP-MODELは次の野音で終了。予定通り個々のメンバーはそれぞれの活動に帰るのです。平沢はソロ、秋山もソロ、ことぶきは海外に渡り、藤井はグルーヴァーズに帰る。私はそれぞれの新たな活躍に期待しつつ、次のP-MODELの準備を進めることにしましょう。

そんなわけで、このP-MODELのライブはあと1回。次の日比谷野音で本当におしまい。


しかし、年季の入ったファンはこんな不親切には慣れている。

平沢 進
1993

“AURORA” PRコメント
 土曜日は電気自動車に乗って鍼灸医のところへ行きます。3、4本“置き針”してもらい、帰宅してからコンピュータに向かいます。“置き針”というのは、ツボに針を刺したまま生活することで、痛くありません。置き針とコンピュータから生まれた私のアルバム『オーロラ』を2月25日にリリースします。この世の仕事に疲れたら、置き針と『オーロラ』で宇宙とのインタラクティブゲームをしましょう。オフィスや部屋に仮想的な大草原を繰り広げ、あなたの黄金を探してください。これが90年代置き針カルチャー。では、オキバリヤス。
1994

P−MODEL近況報告
 お待たせしておりますP-MODELですが、改訂作業も着々と進み、9月の野音では、再始動できるはずでした。しかし現時点で、今後の活動の図式の中に、若干のバグ(正しい日本語で言うと、「大きな影響を産む些細な問題」)が発見されました。現在は、バグ・フィックス(問題をやっつける)のために時間が費やされています。問題が、いつやっつけられるかはわかりませんが、はっきりしている事は、1,994メガ年9月、リブート不可能(野音は無理だぜ)という事です。
 しかし、解決が困難とはいえ、問題自体は些細なものなので、9月から数えて、そう遠くない近未来にリブート(さあ、いくぞ)できると思っています。

お待たせしておりますP-MODELですが、もうしばらくお待ち下さい。

平沢 進
1994

LOFT20周年寄稿文 ROCK is LOFT
平沢進 Vo, Gui, Synth
P-MODEL
 
1979年、P-MODELのデビューは荻窪ロフトでありました。
私は今でもP-MODELです。
 
うれし恥ずかし日本のロフト20才。
酒のんでよし。
1997

P-MODEL結成20周年プロジェクト
音楽産業廃棄物 〜P-MODEL OR DIE 宣言
P−MODELは、結成以来20年もの間、より健全で正常な「音楽の伝達」をイメージしながら、この過去遺産的音楽産業の中で、膨大なエネルギーを費やして来ました。そして、一見不可能に見えたその夢が、誰にでも使えるインターネットとMP3というテクノロジーによって今実現される時が来たのです。

P−MODELは今、このテクノロジーの実践とともに、活動環境の再建設を図るべく、“音楽産業廃棄物〜P−MODEL OR DIE”と題した一大プロジェクトを実施します。インターネットを通じたMP3による音楽配信を含むこのプロジェクトは、少なくとも2000年の到来まで続きます。

インターネットを通じて、リスナーと音楽家を直結するこのテクノロジーは、悪習と保守主義の権化である、過去遺産的音楽産業の終焉を予感させ、同時に新しい音楽シーンの可能性を浮上させます。それは非常に良い事です。旧音楽産業は、このテクノロジーの可能性を理解、有効利用する事ができず、ただ恐怖し排除しようとさえしています。それは、音楽を単に消費される工業製品としてのみ捕らえ、音楽が本来あるべき姿と、そこに直結してリスナー共々成長しようとする音楽家の姿勢を有効利用できずに廃棄しつづけ、ついには売るべき工業製品さえ失って衰退を迎えた彼らの宿命なのです。我々はこれらの廃棄物を使い、新しい音楽シーンの建設にとりかかろうとしています。

我々はまず、このプロジェクトをスタートさせるにあたって障害となる、メジャーレコード会社との専属契約を廃棄しました。そして我々への賛同者達の協力を得て、MP3によって新作の発表の準備を進める事ができました。全ての問題が解決したわけではありません。あるいは我々は、なにがしかの組織から、理不尽な攻撃を受けるかもしれません。しかしこれは、我々がやるべき仕事なのです。

同時にP−MODELは、インターネットを使用する事によって生じる情報差別にも注意を払います。つまり、インターネットに接続しないリスナーのために、引き続きTESLAKITEレーベルよりCDパッケージのリリースも行っていきます。

“音楽産業廃棄物 〜P−MODEL OR DIE”それは、ある一つの時代の終焉を意味します。

“音楽産業廃棄物 〜P−MODEL OR DIE”それは、音楽シーンの再建設を意味します。

“音楽産業廃棄物 〜P−MODEL OR DIE”それは、音楽とリスナーの復活を意味します。

音声圧縮、配信など、音楽の伝達において先進的であろうとする全ての技術者、賛同者、そして全てのリスナーに感謝します。
1999

培養
P-MODEL史上最も長期間維持された
現行P-MODELのメンバー構成は、
この文章の公表をもって解体される。
現行P-MODELは、その成立の動機において
満足の行く成果を導き、役割が終了したことを自覚し、
ここに解体の表明をする。

今後は、21世紀型P-MODELの新たなスタイルを求め、
革新的、実践的な形態の誕生を待つ
「培養」期間を過すことになる。

いつの日か、培養炉の蓋が開き、
輝ける黄金のホムンクルスが誕生する、その日を待たれよ。

2000/12 P-MODEL
2000

平沢文集